この記事は見る人によっては「死」を冒涜しているととられる恐れがあるため、予めそれを理解した上で苦手な方は閲覧を控えていただきたい。
私の中で、件の彼人は死んだことにした。
大変不謹慎な話に思うだろう。しかし私は極めて利己的で、私に関わることのない人が死んでいても生きていても私にとっては同じことなのだ。
もう関わることもない。名前も聞くこともない。どこで何をしているのかわかるわけもないのだから、私の中で死んだも同然だ。
だって、お互いいつ死んでもわからないような関係なのだから。
箱の中の猫さながら、生きているか死んでいるか確かめる術などないのだから。この先未来永劫。
前回の記事を読んだ人は、さぞかし私のことを可哀想な人だと思っただろう。
でも、彼人を死んだことにしてしまえば、私自身あちらを可哀想だと思えてくる。
要は自分の惨めを自分の解釈で他人に押し付けているようなもんだ。
相手が生きていることなど想像したところで、真実にはなり得ない。しかもそんなもの想像しても苦悩しか生まれない。あの恋に愛など微塵もなかったのだから。死んだことにしないとこちらがやってられない。元気で生きていることを願えるほど私は出来た人間ではない。
?、いいえ、私は悲しんでいるんだよ。
最愛、いや、最恋の人の死に悼んで。
喪に服しているの。
漸く実の祖父の喪が明けたばかりだと言うのに。
ああ、どうして死んでしまったの。
彼人が死んでしまった故に、私自身の死も殺されてしまった。
かつて本当の意味での死を嘱託した相手であったのだから。
それが叶わなくても、恋にとどめを刺すのは自分自身と決めていた。
自殺を望んでいた「恋心」の死因は不慮の事故死となった。
なんだってこんなに突然に。
そんなものと人の死を一緒くたにすることなど、命を冒涜している、と思うかも知れない。しかし、誰かと金輪際死んでも会うことが叶わないと知ることは、人の死と同等に悲しむに値する喪失だと思う。
死に目に会う準備などさせてくれるほど世界は優しくない。
別れはいつだって突然なのだから。
最恋の人へ、そして何より私自身の気持ちに
両手いっぱいの皮肉と憎しみ、そして感謝を込めて、
合掌。