今日、電車に乗ったら、制服を身に纏った少年少女の集団が多く目についた。
その多くは身軽な格好で、花やら何やらの手提げを皆一様に手にしていた。
そっか、今日は卒業式多いんだ。
今年度卒業の学生の子達は、数多くの我慢を強いられ、数々の思い出や喜びを奪われてしまったことと思う。
その悲しみは私には到底図り知れない。
恥ずかしいことに、そのことについてはできるだけ考えたくないと思ってしまう心の小ささだ。
電車の中、一人一人、友人たちに手を振りながら別々の駅で降りてゆく彼らに想いを馳せると、様々な感情が心に染み出してきた。
彼らはもしかしたら、今生の別れになるかもしれないし、ならないかもしれない。
そんな切なさを噛み締めているかもしれないし、いないかもしれない。
この先、誰にも知り得ない運命的なものに翻弄されていくであろう彼らを、地面から少し浮いた場所から見守っているような心持ちになった。
3月といえば、私にも何かと縁がある月であるように思う。
卒業、という実感から縁遠い人生を送ってきた。
どちらかといえば、私の人生を大きく変えた新しい挑戦が強く印象に残っている。
始まりではあるが、ある意味門出ともいえよう。
それからは、私の中で大きな挑戦と言えるものの日程を
3月に設定してきた。
その度に、目に見えない、なにとも言えない何かからいつまでも卒業できない自分に悩まされた。
でも、もしかしたら、その度何かから少しずつ卒業していたのかもしれないし、していなかったのかもしれないし。結果今の私がここにいる。
私は奇しくもこの3月、また新しい道に一歩踏み出している。
学生の彼らに便乗して、私もある一つの卒業をしたつもりでいる。
別れを経験して、また新しい出会いの期待に胸をふくまらせていることだろうと思う。
もう、先生からも何回も聞いていると思うけど、人生は本当にその繰り返しだと思う。
新たな道に光を見出し、新たな出会いに幸福を覚える。
挫折に絶望し、思わぬ別れに涙することも多い。
悲しみは、忘れられる人は忘れてしまって構わない。
忘れられない人は大事に抱えてしまうであろう。
でも、それもとても意味のあることだと思う。
大事に抱えた何かは、いつしか宝物に姿を変える。
姿を変えるまでは疎ましい感情のように思うだろう。
それは、宝物になってからではないと尊いものであることに気が付けないからだ。
宝物に気づいた時はそれを大事にしまっていて欲しい。
絶望も、一つの活路であることを知っていて欲しい。
いくら挫折しても、何かしらの忸怩たる想いがあれば人はなんとか生きていく生き物だ。
生きているということはそういうこと。
生きているだけであなたは何かを諦めていない証拠だ。
光というものは、目で視認するためには一度暗闇に身を投じないといけない。
絶望からしか道が通じていない幸せも中にはあるものだ。
一本槍な人も、屈折が多い人も、今目の前に伸びている道を進むことが「まっすぐ」ということ。
あなたはあなたなりのまっすぐでこの先の幸多い人生を歩んでいって欲しい。
みえるかな、
私の部屋のネモフィラは、蕾をつけ始めた。
未来が芽吹き始めたんだね。
この花が咲いた頃には、私も、あなたも、きっと、。
卒業おめでとうございます。