ここ最近、「呪い」という言葉を耳にする機会が増えた。
というのも、昨年から放送が始まったアニメ『呪術廻戦』の大ヒットに深く関係していることは自明の理であると思う。
ざっくりとあらすじを紹介すると、
人があらゆるサムシングを呪う気持ちから生まれる「呪い」が具現化した怪物「呪霊」と、
「呪い」の力を駆使し、それを「祓う」「呪術師」の戦いを描いたアニメである。
私も、原作を週刊少年ジャンプで毎週楽しんで拝読している。
と、『呪術廻戦』の名前を出したのだが、今日はその話をしたいわけではないので、
この程度に。
私は、「呪い」という言葉にとても馴染みがある。
恐らく高校生くらいの頃から、
気持ちを表現する時に「呪い」という言葉を多用してきたように思う。
生活の軸を、表現に据えてからというもの、
その、「呪い」と向き合いながら生きてきた。
私は常に何かを呪って生きてきた。
先日、だいぶ昔に使っていた何代目かの私の「じゆうちょう」を開くと、
まるで「呪い」というワードの流行を予見していたかのように、
「呪う」だの「呪った」だのという言葉がそこかしこに散らばっていた。
その散らばった「呪い」のピースをつぎはぎしていくと、
解像度が少しずつ上がって、
ぼんやりとある言葉が浮かび上がってきた。
私の「呪い」には「後悔」が深く関係しているのだ。
選択を違えるたびに、人は後悔する。
その後悔には、大概「せい」がつきまとう。
誰かのせい、何かのせい、私のせい。
後悔をするたびに私は何かを呪う。
恐らく、今、私は人生で二番目くらいに大きい後悔に苛まれている時期だ。
私の中で大きく何かが壊れた時、私はある人を恨んだ。
裏切られた、奪われた、壊された、だの。
恨みは「呪い」の種だ。
誰かを呪ったらどうなる?
何が起こるか考えてみて欲しい。
大袈裟な話をすれば、私は、血をみるようなことにはなりたくない。
誰かを呪ったところで、私には何もできないし、何も変わらない。
なのに、その誰かは、勝手に呪われ、その分傷ついている。
どうしたら良いのだろう。頭を抱えた。
そうかならば簡単な話、自分を呪えば良いのだ。
誰かのせいにしてもどうにもならないから、
自分のせいにすれば全て丸く収まるもんだ。
楽。そう思っていた。結果、
失敗。そんな言葉がしっくりくるような体たらく。
年表を作るのであれば、黒澤七尾第◯次大失敗期、と括れるであろう。
ここ最近は、どこで選択を間違えたか、いつの私を責めれば良いのか、
いつの私を呪えば良いのか、無意識に、
「私」に限定した「呪い」の対象を探している。
でも、どうして、人は何かを呪わなければ生きていかれないのだろうか。
赦してあげればいいのではないか。
思いつくことは簡単だが、赦すのってそう簡単ではない。
どうして、こうも、何かを呪っては、赦してあげられないのだろうか。
後悔をするたびに、誰かを呪ってしまわないように、自分を呪い、
自分に呪われた自分を赦してあげられない自分をさらに呪う。
こんなに悲しいことってないと思う。あんまりじゃないか。
出来るものなら、私は、「呪い」じゃなく「赦し」を探せるようになりたい。
他の誰でもない、自分で自分を赦せる人間に、いつか、。
芥見下々先生に言わせてみれば、
「呪い」は「祓う」ものらしいが、
「祓う」と「赦す」って、字の形が似ている気がする。
似ている気がする。それだけ。
私は、新章に突入した『呪術廻戦』の続きを楽しみに月曜を待っている。
が、実は、カイドウの人獣型が披露されるであろう
次号の『ONE PIECE』が、一番、楽しみでたまらない。