花瓶のデルフィニウムが萎れていた。
でも、青青しい瑞々しさは残したまま。
あと数日すれば枯れてしまうだろう。
形は残したかったので、
一番美しい状態で、押し花にして、栞に使っている。
切り花というものは、
花瓶に生ければその数日は水を吸って綺麗な花を咲かせるが、
首を切ってそこに血液を流し込み、
腐敗するのを先延ばしする、
謂わば生首の様だ、と、考えてしまう。
私は、私の精神衛生のために、
部屋に花の生首を晒している。
人は、生きるために生き物を殺す。
食物連鎖の原則を考えれば、
食肉動物を殺すことは自然の摂理として納得できる。
しかし、切り花にいたっては残酷に思う人もいるかもしれない。
だが、花の死も、誰かが生きるためには、
尊い犠牲であるといいたい。
私は、私のために咲いてくれたデルフィニウムを、
ゴミ箱にポイすることなんてできなかった。
燃やしてしまえば全部塵となり灰となる。
どこかの誰かに運ばれて、知らない場所でそうされるなら、
せめて感謝を込めて、生けた花は自分で殺すことにする。
儚く美しく花弁を散らすこともできずに、
愛に渇いたように枯れてしまうのなら、
せめて最期は鮮烈に美しく、火に焼べる。
それが私にできる彼らへの最大限の花向けだ。
ありがとう。さようなら。