どうも、文章を綴れないストレスを別の文章を綴ることで解消してみむとする者です。
随分と近況を報告していなかったように思います。
去年の暮れに無職になり、職探しに時間を費やし、今年の6月に就職しました。
そしてその会社を一週間でクビになり、また無職に返り咲き、
やってみたかったアパレル関連の職を探し、玉砕を繰り返し、
結局飲食店のアルバイトに落ち着いています。
嘘です、落ち着いてはいません。
随分昔に大きく育った逃避願望は後半身にたぷたぷに満ちていて、
いつ自分がそいつに呑み込まれるかわからない、
びくびくおどおどした毎日を送っています。
ひとまずの安寧を求めて職探しはしたものの、
職探し中は精神は安定せず、
晴れて就職が決まったと思えば仕事の過酷さに精神が揺らされ、
不安定な毎日に戻り、
安定はせずとも簡単に就ける仕事に従事した結果、
明日に不安を抱えるという不安定スパイラル。
ここまでくれば、どんなにいい仕事についていても精神が安定することはないんだということくらいわかります。
ということで安定を諦めた次第です。
今は、安定を求めて不安定な状態が真に健全である、という結論に至りました。
でた、負け惜しみ〜
今目指しているものは、ある程度の破滅、堕落が許されるような環境、生活を手に入れることです。
意外と難しいものですね。誰かレクチャーしてくれないかな。
さて、ここまではここ最近というより、上半期ちょいの私の軌跡を綴っていきました。
もっとミクロな領域で最近思ったことをラフに話していきましょう。
先日友人と七輪を囲んでいる時に、訊ねられました。
「最近の作家で、誰か語れる人いる?」
私は言葉に窮してしまいました。
要は好きなものの好きなところを好きなように話していいという自由な質問でした。
しかし、あまりにもアバウトすぎるな、と思ってしまいます。
もちろん、ありがたいことにこの世界には好きだと思える人や作品が溢れていて、それを好きな理由も掘れば掘るほど出てくるものだと思います。
だというのにも最近の私はそれをあまり深く掘らずに生きていることをまざまざと実感することになります。
ちょっと昔の私なら、「最近この本読んで〜」だの、「この曲のピアノが〜」だの意気揚々と言語化して語っていたはずでした。
ここ最近は頭がバカになってしまったのか、好きなものの好きな理由を言語化する能力が弱ってしまっていると感じました。
でも、それでもいいんじゃないか、と思いました。
もちろん、言語化する能力、語彙は大切なものだと思います。
でもそれは他人に聞かれて即興的に発揮できる必要はないのではないか、と。
好きだ、と思った瞬間は確かに存在し、そこには同時に理由も存在していることも多いでしょう。
好き以外にも、不愉快に思った瞬間も、楽しいと思った瞬間も同じです。
私はその瞬間の感覚に鮮烈な刺激を覚えます。
一番大切にするべきなのはずばり感覚だと思いました。
それは他人に話す用にまとめる必要もなく、自分だけがわかるように大切に抱えておくだけで十分満たされる。
自分が好きだと思うものの理由を面白おかしく話せる人は話し上手、コミュニケーション能力に長けていると言えるでしょう。
重宝すべき個性だと思います。
それによって得られる楽しみもあることは重々承知の上です。
しかし、私はそれよりも私が私のためだけに感覚した刺激を大切にしたい。
これからは私自身のことを感覚主義と主張していきます。
そして最近の私について、もうひとつ思ったこと。
好き嫌いや主義思想が高頻度で変わることに気がつきました。
今更かよ。
そこについて友人に話したところ、
「自分が貫き通したい確固たる信念はないのか」
と聞かれました。
ありませんね。
貫き通し”たい”と思って貫いている時点で、自分に嘘をつかなければならない瞬間が出てきてしまう可能性があります。
誰に忖度してもいいから、自分にだけは素直でありたい。好きな人にも嘘をついてもいい。好きなものを嫌いと言ってもいい。その時にちゃんと腹の中では好きだと思えているなら自分以外には存分に嘘をついていきたい。しかし、自分の感覚には従順に生きたい。
私は主義思想をコロコロ変え、好きなものも変え、行動を変え、居場所を変えてその瞬間瞬間に感じる刺激を大切にしたい。
私は感覚主義だから。
あえて、確固たる信念として語るものがあるとしたら、
その瞬間好きなものを好きだと思い尽くすこと。
です。
でた、負け惜しみ〜
上野公園の噴水が枯れてて驚きました