いつか街から豆腐屋が消えた

私は、日常生活において、

感情を大事にしすぎてしまう傾向にあるように思う。

 

もちろん私だって、という人も少なくはないと思う。

 

だけど、私は一つの悩みとして抱えてしまうくらいに

感情を大事にしすぎる。

 

そんな、私の宝物とも言える感情の中でも、

本能的に心の奥底で無意識に大事に抱えている感情がある。

 

ノスタルジー

 

この感情は、普段生きてて感じることは少ない。

けれど、突然何かの拍子で記憶が刺激され、

なんとも言えない切なさに襲われる。

そんな時に私はノスタルジーを感じていると思う。

 

私の実家の近所には豆腐屋があった。

 

徒歩2分に満たないほどの近さにあったはずだ。

 

もう、それこそ何かの拍子で記憶が刺激されなければ

思い出せないほど昔のことだ。

 

私のはじめてのおつかいはそこの豆腐屋だったはずだ。

 

私がまだ、未就学児であった頃に、

味噌汁用の豆腐をそこで買っていた。

 

「絹ごしのお豆腐、一丁」

という呪文を覚えて、一人で豆腐を買いに行っていた。

 

豆腐屋専用の呪文だ。

 

まだ幼かった私が豆腐屋でその呪文を唱えると、

決まっておばちゃんが、絹ごし豆腐一丁と、飴をくれた。

 

その成功報酬のために豆腐の購入のミッションを遂行した。

 

いつだっただろうか、それこそ私がまだ未就学児であったうちに、

その豆腐屋スーパー銭湯になった。

 

今はそのスーパー銭湯にはものすごくお世話になっているのだが、

だからこそ豆腐屋の記憶は、スーパー銭湯の記憶に埋もれてしまっている。

 

おそらく同時期にあらゆる街から、

豆腐屋が軒並み消えていったように思う。

 

最近はどの街を歩いていても、豆腐屋を見かけない。

 

 

ノスタルジーとは、今現在、存在しているものには感じないようにできている。

 

例えば、ゲームの通信を行っていたコード、

 

友達の家で五人布団を並べて、就寝するだけのことを催し物として行った記憶だったり、

 

それこそ、叶わなかった恋なんかには悉く記憶を刺激される。

 

私は、夕陽をみるとなぜか毎回切ない気持ちになる。

 

今日という日の記憶を燃やして、過去にしてしまうからこそ、

綺麗に映るのかな、なんてことを思う。

 

豆腐屋の記憶の上に積まれたスーパー銭湯の真新しい記憶にも、

いつかノスタルジーを感じる時が来るのだと思う。

 

今あるものがなくなって、それを懐かしみ、温かい気持ちに溢れる。

そんな仕組みに少し切なさを感じないだろうか。

 

これからも、数々の別れを経験して、それが思い出になった時に、

縋ってしまいたくなるような切ない温かさに包まれる。

 

どんどん無くなっていくんだろうな。

 

今は蓋をしたい別れの記憶も、乾いて瘡蓋が剥がれて、綺麗さっぱり傷跡が消えた後になって、ノスタルジーに変わる日が来るのだろうか。

 

 

私が生まれるずっと前から、それこそ父親が学生であった頃から

我が家で贔屓にしている個人経営の肉屋が、

閉店を発表した。それも、明日。

 

昔から同じ店主が、休まずにほとんど毎日店に立ち、

肉を量ったり、挽いてくれたりしていた。

 

実家で食べる肉は、ほとんどそこで買った肉だ。

 

 

いつか、数年後どこかで肉を食べた時、

この喪失が、この記憶が、あの肉屋が、

私を温かい気持ちで包んでくれる時が来るのだろう。

 

本当に長い年月、お疲れ様でした。