真理は陳腐な
地下鉄は救いがない乗り物だ。
閉ざされた空間の中には数多の現実が充満していて
窓の外の景色に思いを馳せることもできない。
風景が他人の面をしている。
銀座の高級店も、チェーン店も、
コンビニも、家も、
誰からも私は歓迎されない夜だ。
世界から爪弾きにされてる、と1番感じる時は、
好きな人に認めてもらえない時かもしれない。
アルコールの年波
お酒を飲んで、ふと年齢を感じた。
酔いが回りやすくなったな、とか
次の日残りやすくなったな、とかで
歳を取ったなと実感する、
ということではなく、
飲み会帰りのあの羞恥を自覚する瞬間、
あの瞬間に、自分がまだ若いということを実感する。
二十代前半の頃は、いくら飲んでいくら失敗しても、
酔いが回った頭では刹那にどうでもよくなってしまうものだった。
今はというと、
酔いが回った頭でも、他人の感情の機微や些細などうでもいい失言などが気になってしまう。
それは会がお開きになった後も記憶にこびりついていて、
一人になった帰り道にそっと反省会をすることがしばしば。
お酒を飲み始めた頃に比べれば少し大人になったのかもしれない。
けれどふと思った。
もしかしたらもう少し大人になったら逆にこの反省会をしなくなる時がまた来るんじゃないか、と。
この、他人からしたらどうでもいい醜態を自覚し、後悔しているうちはまだ若く、
それが気にならなくなった時点から老化が始まるのではないか、と。
根拠はないが、諸先輩方を観察しているとそんな気がしてくる。
もちろん全ての人に当てはまる訳ではないことはとりたてておきたいが、
両親を見ていても歳を追うごとに恥を恥と感じられなくなってきているのではないか、と見える時がある。
説教臭くなってしまったけど、お酒に限った話ではなく、恥は自覚できるうちにたくさんかいていきたいな、と思った今日でした。
お酒を飲むと髪がへたるあれ、なんなんだろう。
今年も出合頭に金木犀の馨に遭う季節がやってきました。
マスクを着けていると通り過ぎてしまいがちなところが惜しいです。
ここ最近の私
どうも、文章を綴れないストレスを別の文章を綴ることで解消してみむとする者です。
随分と近況を報告していなかったように思います。
去年の暮れに無職になり、職探しに時間を費やし、今年の6月に就職しました。
そしてその会社を一週間でクビになり、また無職に返り咲き、
やってみたかったアパレル関連の職を探し、玉砕を繰り返し、
結局飲食店のアルバイトに落ち着いています。
嘘です、落ち着いてはいません。
随分昔に大きく育った逃避願望は後半身にたぷたぷに満ちていて、
いつ自分がそいつに呑み込まれるかわからない、
びくびくおどおどした毎日を送っています。
ひとまずの安寧を求めて職探しはしたものの、
職探し中は精神は安定せず、
晴れて就職が決まったと思えば仕事の過酷さに精神が揺らされ、
不安定な毎日に戻り、
安定はせずとも簡単に就ける仕事に従事した結果、
明日に不安を抱えるという不安定スパイラル。
ここまでくれば、どんなにいい仕事についていても精神が安定することはないんだということくらいわかります。
ということで安定を諦めた次第です。
今は、安定を求めて不安定な状態が真に健全である、という結論に至りました。
でた、負け惜しみ〜
今目指しているものは、ある程度の破滅、堕落が許されるような環境、生活を手に入れることです。
意外と難しいものですね。誰かレクチャーしてくれないかな。
さて、ここまではここ最近というより、上半期ちょいの私の軌跡を綴っていきました。
もっとミクロな領域で最近思ったことをラフに話していきましょう。
先日友人と七輪を囲んでいる時に、訊ねられました。
「最近の作家で、誰か語れる人いる?」
私は言葉に窮してしまいました。
要は好きなものの好きなところを好きなように話していいという自由な質問でした。
しかし、あまりにもアバウトすぎるな、と思ってしまいます。
もちろん、ありがたいことにこの世界には好きだと思える人や作品が溢れていて、それを好きな理由も掘れば掘るほど出てくるものだと思います。
だというのにも最近の私はそれをあまり深く掘らずに生きていることをまざまざと実感することになります。
ちょっと昔の私なら、「最近この本読んで〜」だの、「この曲のピアノが〜」だの意気揚々と言語化して語っていたはずでした。
ここ最近は頭がバカになってしまったのか、好きなものの好きな理由を言語化する能力が弱ってしまっていると感じました。
でも、それでもいいんじゃないか、と思いました。
もちろん、言語化する能力、語彙は大切なものだと思います。
でもそれは他人に聞かれて即興的に発揮できる必要はないのではないか、と。
好きだ、と思った瞬間は確かに存在し、そこには同時に理由も存在していることも多いでしょう。
好き以外にも、不愉快に思った瞬間も、楽しいと思った瞬間も同じです。
私はその瞬間の感覚に鮮烈な刺激を覚えます。
一番大切にするべきなのはずばり感覚だと思いました。
それは他人に話す用にまとめる必要もなく、自分だけがわかるように大切に抱えておくだけで十分満たされる。
自分が好きだと思うものの理由を面白おかしく話せる人は話し上手、コミュニケーション能力に長けていると言えるでしょう。
重宝すべき個性だと思います。
それによって得られる楽しみもあることは重々承知の上です。
しかし、私はそれよりも私が私のためだけに感覚した刺激を大切にしたい。
これからは私自身のことを感覚主義と主張していきます。
そして最近の私について、もうひとつ思ったこと。
好き嫌いや主義思想が高頻度で変わることに気がつきました。
今更かよ。
そこについて友人に話したところ、
「自分が貫き通したい確固たる信念はないのか」
と聞かれました。
ありませんね。
貫き通し”たい”と思って貫いている時点で、自分に嘘をつかなければならない瞬間が出てきてしまう可能性があります。
誰に忖度してもいいから、自分にだけは素直でありたい。好きな人にも嘘をついてもいい。好きなものを嫌いと言ってもいい。その時にちゃんと腹の中では好きだと思えているなら自分以外には存分に嘘をついていきたい。しかし、自分の感覚には従順に生きたい。
私は主義思想をコロコロ変え、好きなものも変え、行動を変え、居場所を変えてその瞬間瞬間に感じる刺激を大切にしたい。
私は感覚主義だから。
あえて、確固たる信念として語るものがあるとしたら、
その瞬間好きなものを好きだと思い尽くすこと。
です。
でた、負け惜しみ〜
上野公園の噴水が枯れてて驚きました
2022/04/18 28:57
明日への手紙
なんだか習慣になっていることがある。
明日の自分への手紙だ。
ベッドの上に一つのノートがある。
そして頭上の引き出しにはマッキーがしまってある。
思い立った時に明日の自分への手紙を書くのだ。
とはいってもToDoリストでもなんでもなく、真夜中の、体の中に健康上よくないものが混じりに混じって朦朧とした意識の中考えていることをつらつらと並べていることがほとんど。
眠れない夜のやり場のない寂しさや、その時虚しく感じたことや、明日の自分への願いなど様々。
いい年した大人の習慣にしては数年後には黒歴史になっているであろうノートだ。
だけどまあ、いざ死ぬ時に思い返せば人生なんて全部黒歴史で紅潮した顔を両手で覆いながら天に召されていくものだと思うから、どうせなら今現在進行形の黒歴史は積極的に晒していこうとも思っている。
生き恥を晒すとはまさにこういうことだと思う。
だけど、たまに翌朝その手紙を読むと感傷に浸る時もある時があるのがなんともいえない。
昨晩は今日の私に対してあることをお願いしていた。
今日中には…と理不尽に思ったけど、優しいな、とも感じた。
筆致に切実さと呆れを感じる。
まあ、善処してみよう。
実は思ったよりも私はいろんな人から許してもらえているのかもしれないしね。
昨日の自分のやさしさには感謝して今日も生きていこうね。
ありがとーーーー
今日もできる限り喧嘩しないように頑張ります。
今日は我慢してたハンバーガーでも食べようかな。
大きくて食べづらいやつ。
いつだかの昨日の遺言
カラスの鳴き声が聞こえる。
窓を叩く雨の音もおさまり、空も白みを帯びてきた。
私の今日を無視して地球は今日を始める。
どんな夜を過ごしてたのかも関係なく。
昨日から早く抜け出さなきゃ。
布団を頭から被った私の願いも無碍に
太陽は登るらしい。
誰とも繋がりのない一人の寂寥を引きずったまま
昨日と地続きの『昨日』を、今日へと進まない昨日を一日を繰り返すらしい。
やっと咲きはじめようとする頃の花も、
羞恥に毒されて一向に芽を出さない。
何をすればいいのか、わかる頃には今日になっているのかな。
いや、きっと今日になる頃には、こんなことを考えていたことも忘れているだろう。
ほら、この通り